2015年5月17日日曜日

室田さんの戦争手記

戦争の体験を語れと言うお誘いは、今迄に何回かあった。いつも困惑してしまう。私にとっては哀しくて辛いことばかりの話をすることになるのだから。
七十年前のあの戦争で生きて還ることのなかった友人たちの誰彼を、今でも若者の顔で思い浮かべることがある。故郷に、肉親に、どんなにか心残して死んでいったであろう若者たちに、あの戦争に何の意義があったのか。生き残った者の責務として、話し継ぐべきであろうかと、その思いで手記を綴ってみることにした。
当時の男子にとって、三年間の兵役は国民の義務だった。兵役に服すれば、生きて還れると言う保証はなかった。
そんな若者たちには、自分の人生の将来に希望も夢も描くことは不可能な時代だったのだ。満二十才になると男子は兵隊検査を受ける。丸坊主になって、モッコ禅の丸裸だ。最後には会場の板の間に両手両足の跡形があり、それに四つん這いになって衛生兵に性病の検査をされる。終るとよしと尻を叩かれた。成人式に嬉々としている今の若者たちには想像もつかぬ姿だ。
検査の結果は、種と三つに判定される。甲種と第一乙種に合格した者が現役として入隊することになる。
私が検査を受けたのは昭和16年、その年12月8日。日本はハワイの真珠湾を攻撃し、英・米に宣戦を布告、太平洋戦争に突入した年である。
翌17年1月7日、入隊するため七人の若者が、今宮神社に集合した。町長や愛国婦人会の襷(たすき)を掛けた婦人たち、日の丸の小旗に囲まれていた。代表して私が挨拶をした記憶もある。戦後七人の中無事に生還出来たのは三人だけだった。
私が入隊したのは、満州、ソ連と北朝鮮と国境を接する春と言う国境の町だった。
通称七二八部隊(独立歩兵第一連隊)関東軍の中でも精鋭と言われた部隊だった。満州に赴任する前に内地で三ヶ月の教育を受けて来た初年兵たちだったが、関東軍での初年兵教育は凄まじいものだった。
初年兵はかわいそうだね
また寝て泣くのかよ
消灯ラッパに合せて唄うよく知られた文句だ。
点呼が終ると、毎晩初年兵は殴られる。もちろん無抵抗だ。殴るのは二、三年兵たちで、自分たちが同じ目に逢って来た仕返しでもするように殴った。拳骨(げんこつ)では自分の手もい。兵たちの履く上靴(革のスリッパ)で殴った。怯えた初年兵の中には小便を洩らす者もいた。この上靴で殴られると、痛いと感じるのではない。焼火著(やきひばし)を当てられたうに熱いと感じるのだ。私の口の中はいつも切れていた。口の中が切れるのだ。
何故無暗に殴るのか。それは重要な意味を持っていた。初年兵たちの人間性を否定するためなのだ。疑問や考えることを許さぬ、只上官の命令にはいと盲従する機械人間を造ることだったのだ。軍隊とはそういう処だった。
昭和18年になると、アメリカの反撃に関東軍の南方転出が囁かれるようになった。昭和19年に入って、私たち七二八部隊第三大隊に転出する時が来た。勿論行先は不明兵たちには何も知らされることはない。
不安なまま数日後兵たちは鮨詰で輸送船の中にいた。アメリカ潜水艦の脅威にジグザグ運航で進行していた。
目的地に着いたのは昭和19年2月、上陸したのはマリアナ諸島パガン島だった。東京からサイパン島は2000km、手前のパガン島1800kmの地点にあった。小さな火山島だった。先着に少数の海軍の兵もいた。陸軍と海軍、守備隊の人員は二五〇〇人だった。
島には小さな飛行場があった。兵の半分はその拡張整備、半分は陣地造りに働いた。
昭和19年6月11日、サイパン島にアメリカ軍の攻撃が始まり、15日には上陸して激しい地上戦になった。海軍の無線機が状況を受信していた。7月7日、二十二日間の戦闘で玉砕。島民の自決も歴史に残る悲惨な玉砕だった。
後日になって知ったことだが、このサイパン島を援護するため、日本の連合艦隊も出撃していたのだ。6月15日、マリアナ沖洋上で海戦史上未曽有と言われるアメリカ艦隊との決戦が行われていたのだ。この決戦で日本の連合艦隊は壊滅的な打撃を受けてしまった。惨敗だった。パガン島に食糧や物資の補給など出来る状況でなかったことを、後日知ったので ある。
このような戦況の中でパガン島も当然のこと過酷な攻撃を受けていた。
6月12日早朝、すさまじい爆音と機銃掃射の音で空襲がはじまった。この日の銃爆撃で、島の小さな町も港も、港にサイパンから避難して来た漁船群も黒煙を上げていた。抵抗していた地上の対空陣地は全滅した。二日目からの襲撃には一発も撃ち返すことが 出来なかった。
この日からパガン島は空襲に対して無抵抗の島になってしまったのである。
物資も食糧も補給の無い島だった。当然のこと食糧が不足していった。昼は地下壕にもぐり、夜になって兵たちは食糧の調達に働いた。喰べられるものならなんでも喰べた。島にはカタムリが棲息していた。足の踏み場もないほどいた。これが兵たちの貴重なタンパク源になった。そのカタツムリが姿を見せなくなるほど喰べつくした。だがこの カタムリには問題もあった。卵巣に猛毒があり、寄生虫もいたりして、当初調理を待ち切れずに生のまま喰べて発狂したようになり、数日後に死亡した者が何人も出たので ある。
このカタツムリを喰べるには、空の中から肉を取り出し、飯盒(はんごう)に入れて、ごつごつした木の枝で掻き回すとカタツムリのぬるぬるが枝に絡みつき、きれいになったところで海水で茹でる。そうして喰べた。
連日の猛爆に身動きできぬ兵たちは壕の中で横になっていた。話し声はなかった。ると光った涙を耳に落していた。サイパン玉砕、次は当然俺達の島だ。明日の無い命、飢えと絶望に流していた涙だった。
サイパンからB29爆撃機が飛び立つようになった。島の上空を編隊を組んで本土空襲に行くB29を為すすべもなく見送っていた。
パガン島にもB29が現れるようになった。高度上空から半日も絨毯爆撃を繰り返していた。無抵抗の島にグラマン戦闘機の銃撃も爆撃も彼らには遊戯のようなものだったのだ。
パガン島に敵は上陸して来なかった。小さな島。爆撃さえしていれば手も足も出ない島だと思ったのかもしれぬ。
過酷な爆撃の日々は昭和20年4月まで一日も休むことなく続いていたのだが、5月に入ると嘘のように減って来た。グラマン戦闘機も無暗な銃撃をしなくなった。偵察に飛び回るだけのようだった。日曜には姿を見せなくなっていた。こうして8月、パガン島に生きて終戦を迎える日が来たのだ。
猛爆の日々の中で見聞して来た痛ましいこと、哀しかったこと、いくつもあるが、その一つ一つを詳細に記したいとは思はない。
だが一つだけ心に残る忘れられないことがあった。
昭和19年11月のことだったと思う。
B29の爆撃がつづいていた日、逃げ遅れた兵の一人が壕の手前で爆風に叩きつけられた。腹が破れていた。駆け寄った兵たちの中で、転げ回って苦しんでいたのだが、やがて動かなくなった。痛みを感じることがなくなったのだ。小さい声で吹くように、お母さんと言った。息絶えた。見守る兵たちに声はなかった。明日は我が身のことなのだ。
群馬県出身の兵だったように思う。痛み苦しむ中で、最後に幼かったとき、母の胸に抱かれていたときの安らぎが恋しかったのだと思う。
あの戦争に無残に死んでいった若者たちにどんな意義あったと言うのか。
無念のま生きて還ることなかった若者たちの霊に、あらためて心から冥福を祈り稿を終りたい。
一発の弾も撃つことのなかった私の戦争だった。幸い帰還の日は早かった。昭和20年10月26日、浦賀に着いた。迎えに来てくれた輸送船は長運丸と言う名だった。