Hina-festival : We Japanese celebrate our female children for their happiness by decorating Hina-figures on March 3rd
2016年3月3日木曜日
2016年2月25日木曜日
我が家の猫物語(7)
我が家の4匹のペットの頂点に立つのは、オス猫の“ズーちゃん”です。由緒不明の捨てネコですが、最強の四脚獣です。威張る様子もなく、警察権を掌握しているわけでもありません。要するに天敵が居ないため、何の気遣いも無く、喰うか寝るかの生活です。“ミャオ〜”のひと声で食餌の用意もトイレの始末も二足歩行の下僕に任せます。
2015年6月14日日曜日
2015年5月17日日曜日
室田さんの戦争手記
戦争の体験を語れと言うお誘いは、今迄に何回かあった。いつも困惑してしまう。私にとっては哀しくて辛いことばかりの話をすることになるのだから。
七十年前のあの戦争で生きて還ることのなかった友人たちの誰彼を、今でも若者の顔で思い浮かべることがある。故郷に、肉親に、どんなにか心残して死んでいったであろう若者たちに、あの戦争に何の意義があったのか。生き残った者の責務として、話し継ぐべきであろうかと、その思いで手記を綴ってみることにした。
当時の男子にとって、三年間の兵役は国民の義務だった。兵役に服すれば、生きて還れると言う保証はなかった。
そんな若者たちには、自分の人生の将来に希望も夢も描くことは不可能な時代だったのだ。満二十才になると男子は兵隊検査を受ける。丸坊主になって、モッコ禅の丸裸だ。最後には会場の板の間に両手両足の跡形があり、それに四つん這いになって衛生兵に性病の検査をされる。終るとよしと尻を叩かれた。成人式に嬉々としている今の若者たちには想像もつかぬ姿だ。
検査の結果は、甲・乙・丙種と三つに判定される。甲種と第一乙種に合格した者が現役として入隊することになる。
私が検査を受けたのは昭和16年、その年12月8日。日本はハワイの真珠湾を攻撃し、英・米に宣戦を布告、太平洋戦争に突入した年である。
翌17年1月7日、入隊するため七人の若者が、今宮神社に集合した。町長や愛国婦人会の襷(たすき)を掛けた婦人たち、日の丸の小旗に囲まれていた。代表して私が挨拶をした記憶もある。戦後七人の中無事に生還出来たのは三人だけだった。
私が入隊したのは、満州、ソ連と北朝鮮と国境を接する琿春と言う国境の町だった。
通称七二八部隊(独立歩兵第一連隊)関東軍の中でも精鋭と言われた部隊だった。満州に赴任する前に内地で三ヶ月の教育を受けて来た初年兵たちだったが、関東軍での初年兵教育は凄まじいものだった。
「初年兵はかわいそうだね
また寝て泣くのかよ」
消灯ラッパに合せて唄うよく知られた文句だ。
点呼が終ると、毎晩初年兵は殴られる。もちろん無抵抗だ。殴るのは二、三年兵たちで、自分たちが同じ目に逢って来た仕返しでもするように殴った。拳骨(げんこつ)では自分の手も痛い。兵たちの履く上靴(革のスリッパ)で殴った。怯えた初年兵の中には小便を洩らす者もいた。この上靴で殴られると、痛いと感じるのではない。焼火著(やきひばし)を当てられたように熱いと感じるのだ。私の口の中はいつも切れていた。口の中が切れるのだ。
何故無暗に殴るのか。それは重要な意味を持っていた。初年兵たちの人間性を否定するためなのだ。疑問や考えることを許さぬ、只上官の命令に「はい」と盲従する機械人間を造ることだったのだ。軍隊とはそういう処だった。
昭和18年になると、アメリカの反撃に関東軍の南方転出が囁かれるようになった。昭和19年に入って、私たち七二八部隊第三大隊に転出する時が来た。勿論行先は不明。兵たちには何も知らされることはない。
不安なまま数日後兵たちは鮨詰で輸送船の中にいた。アメリカ潜水艦の脅威にジグザグの運航で進行していた。
目的地に着いたのは昭和19年2月、上陸したのはマリアナ諸島パガン島だった。東京からサイパン島は2000km、手前のパガン島1800kmの地点にあった。小さな火山島だった。先着に少数の海軍の兵もいた。陸軍と海軍、守備隊の人員は二五〇〇人だった。
島には小さな飛行場があった。兵の半分はその拡張整備、半分は陣地造りに働いた。
昭和19年6月11日、サイパン島にアメリカ軍の攻撃が始まり、15日には上陸して激しい地上戦になった。海軍の無線機が状況を受信していた。7月7日、二十二日間の戦闘で玉砕。島民の自決も歴史に残る悲惨な玉砕だった。
後日になって知ったことだが、このサイパン島を援護するため、日本の連合艦隊も出撃していたのだ。6月15日、マリアナ沖洋上で海戦史上未曽有と言われるアメリカ艦隊との決戦が行われていたのだ。この決戦で日本の連合艦隊は壊滅的な打撃を受けてしまった。惨敗だった。パガン島に食糧や物資の補給など出来る状況でなかったことを、後日知ったので ある。
このような戦況の中でパガン島も当然のこと過酷な攻撃を受けていた。
6月12日早朝、すさまじい爆音と機銃掃射の音で空襲がはじまった。この日の銃爆撃で、島の小さな町も港も、港にサイパンから避難して来た漁船群も黒煙を上げていた。抵抗していた地上の対空陣地は全滅した。二日目からの襲撃には一発も撃ち返すことが 出来なかった。
この日からパガン島は空襲に対して無抵抗の島になってしまったのである。
物資も食糧も補給の無い島だった。当然のこと食糧が不足していった。昼は地下壕にもぐり、夜になって兵たちは食糧の調達に働いた。喰べられるものならなんでも喰べた。島にはカタツムリが棲息していた。足の踏み場もないほどいた。これが兵たちの貴重なタンパク源になった。そのカタツムリが姿を見せなくなるほど喰べつくした。だがこの カタツムリには問題もあった。卵巣に猛毒があり、寄生虫もいたりして、当初調理を待ち切れずに生のまま喰べて発狂したようになり、数日後に死亡した者が何人も出たので ある。
このカタツムリを喰べるには、空の中から肉を取り出し、飯盒(はんごう)に入れて、ごつごつした木の枝で掻き回すとカタツムリのぬるぬるが枝に絡みつき、きれいになったところで海水で茹でる。そうして喰べた。
連日の猛爆に身動きできぬ兵たちは壕の中で横になっていた。話し声はなかった。見ると光った涙を耳に落していた。サイパン玉砕、次は当然俺達の島だ。明日の無い命、飢えと絶望に流していた涙だった。
サイパンからB29爆撃機が飛び立つようになった。島の上空を編隊を組んで本土空襲に行くB29を為すすべもなく見送っていた。
パガン島にもB29が現れるようになった。高度上空から半日も絨毯爆撃を繰り返していた。無抵抗の島にグラマン戦闘機の銃撃も爆撃も彼らには遊戯のようなものだったのだ。
パガン島に敵は上陸して来なかった。小さな島。爆撃さえしていれば手も足も出ない島だと思ったのかもしれぬ。
過酷な爆撃の日々は昭和20年4月まで一日も休むことなく続いていたのだが、5月に入ると嘘のように減って来た。グラマン戦闘機も無暗な銃撃をしなくなった。偵察に飛び回るだけのようだった。日曜には姿を見せなくなっていた。こうして8月、パガン島に生きて終戦を迎える日が来たのだ。
猛爆の日々の中で見聞して来た痛ましいこと、哀しかったこと、いくつもあるが、その一つ一つを詳細に記したいとは思はない。
だが一つだけ心に残る忘れられないことがあった。
昭和19年11月のことだったと思う。
B29の爆撃がつづいていた日、逃げ遅れた兵の一人が壕の手前で爆風に叩きつけられた。腹が破れていた。駆け寄った兵たちの中で、転げ回って苦しんでいたのだが、やがて動かなくなった。痛みを感じることがなくなったのだ。小さい声で吹くように、お母さんと言った。息絶えた。見守る兵たちに声はなかった。明日は我が身のことなのだ。
群馬県出身の兵だったように思う。痛み苦しむ中で、最後に幼かったとき、母の胸に抱かれていたときの安らぎが恋しかったのだと思う。
あの戦争に無残に死んでいった若者たちにどんな意義あったと言うのか。
無念のまゝ生きて還ることなかった若者たちの霊に、あらためて心から冥福を祈り稿を終りたい。
一発の弾も撃つことのなかった私の戦争だった。幸い帰還の日は早かった。昭和20年10月26日、浦賀に着いた。迎えに来てくれた輸送船は「長運丸」と言う名だった。
2015年3月1日日曜日
雛人形
鹿沼市で公開されている雛人形。江戸時代から明治、大正の立派なお雛様を拝見し、オーナー様の説明を編集しました。
男雛と女雛の位置関係について、大正時代以降は西洋式の位置関係が流行しているそうです。男性は右手に剣を持って敵と戦い、女性を身体の左側に従えて守るため、男性の左側に女性が位置するのが定位置です。これに対して日本古来の雛人形は京都御所の南向きの紫宸殿を模して、東側が上座で男雛、男雛から見て右隣りが西側の下座で女雛だそうです。
2015年2月12日木曜日
冬のアカタテハ蝶
2月12日晴れ、風のない穏やかな日
私はホームセンターの園芸コーナーでアカタテハ蝶を発見した。こういう時に限って、カメラを持ち合わせていません。私はこだわりの行動に出ました。この真冬には弱っているはずだから動かないかもしれないと目論んだのです。すぐに家に戻りIpadを持って、再びホームセンターへ。この間、約20分。いました、同じ場所に羽を広げてアカタテハがいたのです。慎重に近づきながらも、連射。3枚撮ったところで、シャッター音に驚いたチョウは飛び立って店舗の中に逃げ込んでしまいました。
この真冬に貴重な写真が撮れました。
アカタテハ(Venessa indica)は成虫で越冬するそうです。生き延びてほしいと店舗の中に消えたチョウを見送ったのです。
2015年1月25日日曜日
2014年12月23日火曜日
2014年12月19日金曜日
我が家の猫物語(その6)
アンが亡くなって、私達は深い悲しみに落ち込みましたが、一番悲しんだのは弟猫のズーちゃんです。
ズーちゃんはミャオミャオーと昼も夜も泣き続けて、お姉ちゃん猫を呼ぶのです。ズーちゃんはアンの遺体を目にしたはずなのですが、“アン姉ちゃん、出て来てよ。”と家じゅうを探し回るのです。1ヶ月が経っても、ズーちゃんの泣き声は一向に止みません。私たちはズーちゃんのために、そして私達のために、新しい猫を飼うことに決めました。こうして我が家にやって来たのが、シンガプーラのカノンちゃんです。カノンはメス猫で、ズーちゃんの妹というわけです。
私たちは先輩猫のズーちゃんとカノンの折り合いを心配して、教科書的な手順で2匹を引き合わせました。最初の日は2匹は顔を合わせず、別々の部屋で互いの気配だけを認識できるようにしたのです。翌日は襖を細く開けて、互いの姿が時々見え隠れするようにしたのです。当初は一週間かけて完全な対面に至る予定でしたが、実はカノンが到着したその日から、ズーちゃんはカノンに興味津々、悲しみの泣き声は何処かに消えてしまいました。私たちは予定を前倒しして、2匹を対面させたました。
ズーちゃんはミャオミャオーと昼も夜も泣き続けて、お姉ちゃん猫を呼ぶのです。ズーちゃんはアンの遺体を目にしたはずなのですが、“アン姉ちゃん、出て来てよ。”と家じゅうを探し回るのです。1ヶ月が経っても、ズーちゃんの泣き声は一向に止みません。私たちはズーちゃんのために、そして私達のために、新しい猫を飼うことに決めました。こうして我が家にやって来たのが、シンガプーラのカノンちゃんです。カノンはメス猫で、ズーちゃんの妹というわけです。
私たちは先輩猫のズーちゃんとカノンの折り合いを心配して、教科書的な手順で2匹を引き合わせました。最初の日は2匹は顔を合わせず、別々の部屋で互いの気配だけを認識できるようにしたのです。翌日は襖を細く開けて、互いの姿が時々見え隠れするようにしたのです。当初は一週間かけて完全な対面に至る予定でしたが、実はカノンが到着したその日から、ズーちゃんはカノンに興味津々、悲しみの泣き声は何処かに消えてしまいました。私たちは予定を前倒しして、2匹を対面させたました。
2014年12月17日水曜日
我が家の猫物語(その5)
悲しい話ですが、
どうしても、この一章をお話ししないわけにはいきません。
メス猫のアンが病気になったのです。以前から、食欲が細くて、痩せていたのですが、あまりにも力が弱って来たので、動物病院に連れて行きました。そうしたところ、末期の腎不全で余命いくばくもないというのです。
私たちは必死に看病をして、病院で注射治療もしてもらいました。話を聞いた二人の息子も我が家に戻りアンを見舞いました。
10日あまりの闘病生活ののち、ある朝アンは息を引き取りました。享年2歳7か月。
私たちはアンを丁重に弔いました。
今、アンの灰は我が家のある場所に安置されています。
どうしても、この一章をお話ししないわけにはいきません。
メス猫のアンが病気になったのです。以前から、食欲が細くて、痩せていたのですが、あまりにも力が弱って来たので、動物病院に連れて行きました。そうしたところ、末期の腎不全で余命いくばくもないというのです。
私たちは必死に看病をして、病院で注射治療もしてもらいました。話を聞いた二人の息子も我が家に戻りアンを見舞いました。
10日あまりの闘病生活ののち、ある朝アンは息を引き取りました。享年2歳7か月。
私たちはアンを丁重に弔いました。
今、アンの灰は我が家のある場所に安置されています。
2014年12月6日土曜日
我が家の猫物語(その4)
2014年11月28日金曜日
心の彷徨(3、児童相談所)
私たちは里親研修を終了した。
時間の都合がつかなかったため、2度あった認定証明書の授与式を2回とも欠席した。いよいよ、児童相談所から連絡があり、私たちの都合に合わせますから、認定証を児童相談所まで取りに来て下さいというものだった。
私たちはようやく児童福祉の入口に立った。人生の残りのさらに一部の時間しか割くことが出来ないが、私たちは歩み始めた。
(画像は本文と直接関係ありませんが、我が家の景色です。)
(画像は本文と直接関係ありませんが、我が家の景色です。)
2014年11月15日土曜日
心の彷徨(2、東日本大震災)
千振を訪れてから何年か後に、東日本大震災が起った。大津波が東北地方の海岸を襲い、多くの人命が失われたとともに、福島第一原子力発電所で大事故が発生した。
原発の事故は私を震撼させた。私たちも被災者になる可能性があったからだ。その後、事態は私たちにとって最悪の方向には拡大せず、私は自分たちが避難せずに済むと安堵した。この時期に、私の心の中に千振(チブリ)の記憶が蘇った。私は大津波で両親を流された震災孤児がいると聞かされた。私の心は奮い立った。家族を失った孤児たちが新しい家族を作り上げるまで里親として面倒をみたいと考えたのだ。
私は東北地方のある県庁の児童福祉課に電話を入れた。幸い孤児たちは親戚に身を寄せて、今のところ当てのない子はいないという。それから、里親は制度であって、その資格を得るためには研修を受ける必要があると教えられた。とりあえず資格だけでも取ろうと考えて、私は最寄りの児童相談所に里親研修について相談した。
ある日、児童相談所の職員さんと市の担当保健師さんたちが我が家を訪れた。里親研修を受ける前に、我が家が里子を引き受けるために適切な環境であるか否かを確認に来たのだ。
いくつかの質問と応答があり、私は千振(チブリ)の感動と震災を経て里親制度にたどり着いた心の軌跡を素直に語った。市の職員さんの口添えもあり、我が家は里親として適切な環境と見なされたようであった。児童相談所の職員さんの話では、現時点では震災孤児の問題は地元で対応されていて、当県においての需要はないとのことであった。児童相談所の対応している問題は虐待が主であった。親がいるだけに大変苦労の多い仕事らしい。児童福祉施設に入所している子供たちも多くが虐待のためだという。親から虐待を受けている子の対応は苦労が多い。時には夜中に警察の応援を受けて、家庭に赴き、虐待されている子供を救い出すことがあるという。私は素直に訊いていた。しかし、親の責任で虐待された子供たちに手を差し伸べることに意義あるか?という私の疑問は払拭されなかった。そこで、私は口に出しにくいことではあったが、核心的な質問をした。“私は医師なので、無理な仕事や苦労の多い仕事があるけど、患者さんや家族にお陰様で具合がよくなったと感謝されるとき苦労が報われ、遣り甲斐を強く感じることができる。あなたたちは、親からは理解されずに白い目で見られ、時には罵声を浴びせられたり危険に迫られたりすることがあっても、直接的に誰からも感謝されない。それなのに、何故そんなに熱意を持って虐待の問題に取り組むことができるのですか?”
虚を突かれたような静寂の時間が流れ始めた。その時、ある女性職員が答えた、“それは、子供が可愛いからです。今、目の前にいる子がとても可愛いのです。虐待を受けている子供たちは例外なく、みんな本当に可愛いのです。自分が子のこのためになりたいと強く感じるのです。”聞いていた私の目頭が熱くなった。自分の知らない世界と経験を教えられて、私はそれを受け入れることができた。
また、職員さんたちは私たちの状況を考慮して、“ふれあい里親”についても説明してくださった。虐待で施設に入所している子供のためには“ふれあい里親”も必要とされているという。要するに、虐待を受けながら育った子供たちは大人になった時にどのように家族を作ったら良いかが分からないそうである。施設の中だけで子供たちに家族の味まで教え込むことは難しいので、ふれあい里親という制度が用意されている。家族の姿を見せるために夏休みなどを利用して一時的な里親として子供を短期間だけ預かるわけですが、子供たちは間違いなくとても喜ぶという。
我が家は里親の環境として合格した。私は震災孤児の問題を離れて、虐待と児童福祉の問題に関わりたいと思うようになっていた。
そして、里親研修を受けた。
(画像は本文と直接関係ありませんが、我が家の点景です。)
2014年11月6日木曜日
心の彷徨(1、千振紀行)
ずいぶん前の話です。私はリゾート地那須にある満州開拓団の人々が開拓した千振(チブリ)地区のことを何かのきっかけで知り、その碑文を捜しに出かけました。千振はその後NHKのドラマ“開拓者たち”で有名になった地です。
満州は第二次世界大戦前に中国東北部に存在した日本の傀儡政権が建国した国です。世界史的には日本帝国主義の象徴の一つですが、私たち庶民の目からは開拓団の人々の悲劇を思い出させる地名です。開拓団は開拓と自衛のために、満州に送り込まれた人々です。大規模農業の夢を抱いて満州に渡りましたが、1945年8月、第二次世界大戦末期にソビエト連邦が日本との中立条約を破って参戦した時に、事態は一変しました。ソビエト軍の満州への侵攻に日本軍は反撃することができず、見捨てられた開拓団の人たちは日本への脱出港である大連に向かって逃げることになったのです。
1933年以来、開拓団とその家族1000人以上の人々が北部満州のチブリ地区で暮らしていました。チブリ地区は、日本との連絡港の大連まで1000キロメートル以上の距離がありました。ソビエト軍の侵攻後、約半数の人が満州の地で亡くなったそうです。家族を失いながらも日本にたどり着いた人々のうち約100人が那須山のふもとに入植、その地を千振(チブリ)と名付けました。現在も約70家族が農業、酪農を営み、開拓組合を維持しています。
このような歴史を抱えた千振地区ですが、当時その存在場所は一般によく知られていませんでした。地元の那須の人々でさへ、千振を知らない人たちが多かったように記憶しています。何度も道順を尋ねながら、どうにかこうにか見つけた千振地区。私はようやく開拓の碑を探し当て、その前に立ちました。そして碑文を読もうとしたのです。しかし、最初の一節に目をやった瞬間に涙が溢れだしたのです。溢れた涙で目がかすみ、一行を読み終えることすらできなかったのです。
家族を失って那須に到着した開拓者たちは、何に光を見たのでしょうか?どのように奮い立ったのでしょうか?それともただひたすらに鎮魂のため?ここは私の想像を越える英雄たちの開拓地。涙と鼻水で顔を腫らした私は、碑から離れて碑文をカメラに収めました。大地を見渡すと農家の軒先にゆうゆうと鯉のぼりがなびいていました。私は知ったのです。この人たちが英雄だと、大臣でも将軍でもないこの人たちこそ英雄だと。そして、家族を失った人々が新しい家族を作り上げる物語に深く感動したのです。
(文章中の数値については私の記憶を元に記載した概数であり、確認していません。また、この記録は私の英語ブログでも発信しています)
http://kinkanageha.blogspot.jp/2014/05/visited-district-chiburi-wherepeople-of.html
http://kinkanageha.blogspot.jp/2014/05/visited-district-chiburi-wherepeople-of.html
以下は碑文の写真から私が掘り起こした英雄たちの叙事詩です
。
北満の本宮山に別れを告げ、
ここ那須山の麓にたどりついたのが、
昭和21年11月。
皆、傷つき。皆、貧しかった。
満州に失った千余名の愛し子兄弟達のことを想うと
立つ力さえ抜けていった。
然しこの吾々を温かく抱いてくれたのは、
那須の山と村の人々、
力を振りしぼって松や檪(くぬぎ)の根っ子と取り組んだ、
月の光で荒れ地を拓き(切り開き)、
そして麦を蒔いた、出来たものは白穂だけだった。
それでもヘコタレないで拓きに拓いて、
二十年那須山に今日もゆるやかに噴煙がたなびき、
乳牛の声が緑の牧場からきこえて来る。
傷ついた千振の兄弟達がはげましあい力をあわせて
拓き造ったこの沃野だ。
二代三代さらに吾等の子孫がよき
村人として立派な日本農民としてこの
大地に育ちくれんことを、
開拓は決して死なない。
2014年10月19日日曜日
アオスジアゲハ蝶の観察日誌
我が家のクスノキで観察したアオスジアゲハの記録です。
小さな幼虫。
大きくなった幼虫。
サナギが二つ。
越冬して、
翌年の5月10日に孵化して飛び立ちました。
そしてまた、卵を産み付けにクスノキにやってきました。
ちなみに、この写真は私のベストショットのひとつです。
2014年10月11日土曜日
2014年10月7日火曜日
2014年10月6日月曜日
哲学
私達は幸福なのでしょうか?
何処かで見た記憶を頼りに、簡単な1日の幸福度指数を考えて見ました。
1)ひもじくないか?
2)ゆっくり休めたか?
3)楽しい時間を作ることが出来たか?
4)敬意を持って、人に接してもらえたか?
5)不安に慄いていないか?
各項目が満点が1点、そうでもないが0点、満たされなかったがマイナス1点。
合計が5点の人、人に手を差し伸べよ。
4点の人、素敵な一日ですね。
マイナス1点以下の人、助けを求めよう。
絶対的必要条件があります。
1)番のひもじかったらは、それだけで助けを求めるべきでしょう。
2014年10月2日木曜日
登録:
投稿 (Atom)















































