2014年11月28日金曜日

心の彷徨(3、児童相談所)

  私たちは里親研修を終了した。
 
   時間の都合がつかなかったため、2度あった認定証明書の授与式を2回とも欠席した。いよいよ、児童相談所から連絡があり、私たちの都合に合わせますから、認定証を児童相談所まで取りに来て下さいというものだった。
 
 
  私たちはある日の午後、夕方近い時間に児童相談所へ赴いた。児童相談所は小さな建物でその壁は子供らしい明るい色に塗られていた。中に入って、私たちは驚いた。正直な感想ですが、みすぼらしい。呆気に取られた私たちの表情を見てとって、職員さんが答えた。“汚いところでしょう。でも、このほうが良いのです、ここにやって来る児童の親たちが敵意を和らげて安心するのです。” そういう側面があるかもしれないと私は思ったが、釈然としなかった。私たちは廊下の片隅の衝立で仕切られたようなスペースに案内された。この時も何か言い訳をされて、粗茶が振舞われたように記憶している。そして、所長さんと先日我が家を訪問した女性管理職の方がいらっしゃった。里親の認定書はわら半紙であった。女性管理職の方が、用紙の貧弱さとは対照的な認定書の重要性を説明してくださった。そこには里親の認定と登録の事実が記載されていて、県知事の公印が押されていた。その後、なんらかの会話があったと思うが、その職員さんが”実はふれあい里親を頼みたい子がいるのです。”と切り出した。そして、その子の具体的な説明を始めた。所長さんは、”何も初めての方に、その難しい子を当てなくても良いのではないか、これから長く続けてもらう必要があるのだから。”と、あまり初心者にはお勧めしないほうが良いでしょうという意見を述べたように記憶している。ところが、その女性管理職の方は、”所長、大丈夫です、この方達なら大丈夫です。この子には、もう時間が無いのです。貴女達、あの子よあの子の資料を持って来なさい、そして、この方達に説明するのよ。”と、凄い剣幕になって所長を説得して、部下の若手職員を走らせた。3〜4人の女性職員さん達が飛ぶように散ったかと思うと、瞬く間にその子の資料を集めて来た。私たちはその子の話を聞いた。そして、次の冬休みを利用して、その子のふれあい里親を受けることにした。
 
  冬休みのある日、私たちは約束通り、ある児童養護施設にその子を迎えに行った。詳細は書くことが出来ない。その女の子は明るい頭の良い子であった。小学4年生にして、私が60年の人生でようやく培った感性と国語力を凌ぐようであった。私たちは楽しい充実した2日間を経験した。その子もとても喜んでくれたと確信している。児童相談所でのこと、初めてのふれあい里親を通して、私たちは少しずつ自信を持つことができた。
 
  私たちはようやく児童福祉の入口に立った。人生の残りのさらに一部の時間しか割くことが出来ないが、私たちは歩み始めた。

(画像は本文と直接関係ありませんが、我が家の景色です。)


2014年11月15日土曜日

心の彷徨(2、東日本大震災)

 

 千振を訪れてから何年か後に、東日本大震災が起った。大津波が東北地方の海岸を襲い、多くの人命が失われたとともに、福島第一原子力発電所で大事故が発生した。
 
 原発の事故は私を震撼させた。私たちも被災者になる可能性があったからだ。その後、事態は私たちにとって最悪の方向には拡大せず、私は自分たちが避難せずに済むと安堵した。この時期に、私の心の中に千振(チブリ)の記憶が蘇った。私は大津波で両親を流された震災孤児がいると聞かされた。私の心は奮い立った。家族を失った孤児たちが新しい家族を作り上げるまで里親として面倒をみたいと考えたのだ。
 私は東北地方のある県庁の児童福祉課に電話を入れた。幸い孤児たちは親戚に身を寄せて、今のところ当てのない子はいないという。それから、里親は制度であって、その資格を得るためには研修を受ける必要があると教えられた。とりあえず資格だけでも取ろうと考えて、私は最寄りの児童相談所に里親研修について相談した。
 

  ある日、児童相談所の職員さんと市の担当保健師さんたちが我が家を訪れた。里親研修を受ける前に、我が家が里子を引き受けるために適切な環境であるか否かを確認に来たのだ。
 いくつかの質問と応答があり、私は千振(チブリ)の感動と震災を経て里親制度にたどり着いた心の軌跡を素直に語った。市の職員さんの口添えもあり、我が家は里親として適切な環境と見なされたようであった。児童相談所の職員さんの話では、現時点では震災孤児の問題は地元で対応されていて、当県においての需要はないとのことであった。児童相談所の対応している問題は虐待が主であった。親がいるだけに大変苦労の多い仕事らしい。児童福祉施設に入所している子供たちも多くが虐待のためだという。親から虐待を受けている子の対応は苦労が多い。時には夜中に警察の応援を受けて、家庭に赴き、虐待されている子供を救い出すことがあるという。私は素直に訊いていた。しかし、親の責任で虐待された子供たちに手を差し伸べることに意義あるか?という私の疑問は払拭されなかった。そこで、私は口に出しにくいことではあったが、核心的な質問をした。“私は医師なので、無理な仕事や苦労の多い仕事があるけど、患者さんや家族にお陰様で具合がよくなったと感謝されるとき苦労が報われ、遣り甲斐を強く感じることができる。あなたたちは、親からは理解されずに白い目で見られ、時には罵声を浴びせられたり危険に迫られたりすることがあっても、直接的に誰からも感謝されない。それなのに、何故そんなに熱意を持って虐待の問題に取り組むことができるのですか?”

 虚を突かれたような静寂の時間が流れ始めた。その時、ある女性職員が答えた、“それは、子供が可愛いからです。今、目の前にいる子がとても可愛いのです。虐待を受けている子供たちは例外なく、みんな本当に可愛いのです。自分が子のこのためになりたいと強く感じるのです。”聞いていた私の目頭が熱くなった。自分の知らない世界と経験を教えられて、私はそれを受け入れることができた。

 また、職員さんたちは私たちの状況を考慮して、“ふれあい里親”についても説明してくださった。虐待で施設に入所している子供のためには“ふれあい里親”も必要とされているという。要するに、虐待を受けながら育った子供たちは大人になった時にどのように家族を作ったら良いかが分からないそうである。施設の中だけで子供たちに家族の味まで教え込むことは難しいので、ふれあい里親という制度が用意されている。家族の姿を見せるために夏休みなどを利用して一時的な里親として子供を短期間だけ預かるわけですが、子供たちは間違いなくとても喜ぶという。
 

 我が家は里親の環境として合格した。私は震災孤児の問題を離れて、虐待と児童福祉の問題に関わりたいと思うようになっていた。

 そして、里親研修を受けた。

(画像は本文と直接関係ありませんが、我が家の点景です。)
 

2014年11月6日木曜日

心の彷徨(1、千振紀行)

ずいぶん前の話です。私はリゾート地那須にある満州開拓団の人々が開拓した千振(チブリ)地区のことを何かのきっかけで知り、その碑文を捜しに出かけました。千振はその後NHKのドラマ“開拓者たち”で有名になった地です。
満州は第二次世界大戦前に中国東北部に存在した日本の傀儡政権が建国した国です。世界史的には日本帝国主義の象徴の一つですが、私たち庶民の目からは開拓団の人々の悲劇を思い出させる地名です。開拓団は開拓と自衛のために、満州に送り込まれた人々です。大規模農業の夢を抱いて満州に渡りましたが、1945年8月、第二次世界大戦末期にソビエト連邦が日本との中立条約を破って参戦した時に、事態は一変しました。ソビエト軍の満州への侵攻に日本軍は反撃することができず、見捨てられた開拓団の人たちは日本への脱出港である大連に向かって逃げることになったのです。
1933年以来、開拓団とその家族1000人以上の人々が北部満州のチブリ地区で暮らしていました。チブリ地区は、日本との連絡港の大連まで1000キロメートル以上の距離がありました。ソビエト軍の侵攻後、約半数の人が満州の地で亡くなったそうです。家族を失いながらも日本にたどり着いた人々のうち約100人が那須山のふもとに入植、その地を千振(チブリ)と名付けました。現在も約70家族が農業、酪農を営み、開拓組合を維持しています。
このような歴史を抱えた千振地区ですが、当時その存在場所は一般によく知られていませんでした。地元の那須の人々でさへ、千振を知らない人たちが多かったように記憶しています。何度も道順を尋ねながら、どうにかこうにか見つけた千振地区。私はようやく開拓の碑を探し当て、その前に立ちました。そして碑文を読もうとしたのです。しかし、最初の一節に目をやった瞬間に涙が溢れだしたのです。溢れた涙で目がかすみ、一行を読み終えることすらできなかったのです。
家族を失って那須に到着した開拓者たちは、何に光を見たのでしょうか?どのように奮い立ったのでしょうか?それともただひたすらに鎮魂のため?ここは私の想像を越える英雄たちの開拓地。涙と鼻水で顔を腫らした私は、碑から離れて碑文をカメラに収めました。大地を見渡すと農家の軒先にゆうゆうと鯉のぼりがなびいていました。私は知ったのです。この人たちが英雄だと、大臣でも将軍でもないこの人たちこそ英雄だと。そして、家族を失った人々が新しい家族を作り上げる物語に深く感動したのです。
(文章中の数値については私の記憶を元に記載した概数であり、確認していません。また、この記録は私の英語ブログでも発信しています)
http://kinkanageha.blogspot.jp/2014/05/visited-district-chiburi-wherepeople-of.html
 
 以下は碑文の写真から私が掘り起こした英雄たちの叙事詩です
北満の本宮山に別れを告げ、
ここ那須山の麓にたどりついたのが、
昭和2111月。
皆、傷つき。皆、貧しかった。
満州に失った千余名の愛し子兄弟達のことを想うと
立つ力さえ抜けていった。
然しこの吾々を温かく抱いてくれたのは、
那須の山と村の人々、
力を振りしぼって松や檪(くぬぎ)の根っ子と取り組んだ、
月の光で荒れ地を拓き(切り開き)、
そして麦を蒔いた、出来たものは白穂だけだった。
それでもヘコタレないで拓きに拓いて、
二十年那須山に今日もゆるやかに噴煙がたなびき、
乳牛の声が緑の牧場からきこえて来る。
傷ついた千振の兄弟達がはげましあい力をあわせて
拓き造ったこの沃野だ。
二代三代さらに吾等の子孫がよき
村人として立派な日本農民としてこの
大地に育ちくれんことを、
開拓は決して死なない。